Brand Description
Dress For Daily Life 〜ドレスを着るという楽しみを日常に〜
「muller」は、スペイン・アラゴン州でつかわれる方言で“女”を意味する言葉。この言葉を冠することで、ローカルでマイナーなものが常に新しさと驚きを運んできてくれる、という確信をブランド名に込めています。「女性が着る洋服とは?」を追求した先に見出したのが、女性だけのファッションであるドレス。これをブランドの象徴に、「いつの時代でも、どんなに時間が経っても、身につけることで喜びや心躍る気持ちになれる一着を」と、ドレスだけでなく、トップスやスカート、パンツという形で提案しています。
女性にとって「似合う服、似合わない服」はない
どんな女性にとっても「似合う服、似合わない服という区別はない」というのが、muller of yoshiokuboのデザイナー 久保嘉男の絶対的な持論です。服と一人ひとりの間にある関係性は、ある種の思い込みに似ているかもしれません。 大人になって、自分で服を選ぶようになってからもずっと「親に服を選んで着せてもらった幼少期の“ルーティン”」は染み付いているもの。それが、自分にとって似合うか似合わないかの基準にすらなっているかもしれません。
確かに、これまでの歳月で得た自分のファッション体験によって、テイストの好みはあるかもしれません。しかし、それは“絶対”ではないように思います。 もしより多くの「見たことがないもの」に触れる機会が生まれれば、好みの“枠”はいつでも変化する余地があるはず。
だから、muller of yoshiokuboは、「世の中にないようなシルエット」だったり、「今まで見たことがないディテール」だったり、そういう発見・出会いを提供できる存在になれたらいいな、という想いを強く込めています。
もちろん、「髪の色や肌の色によって『似合う色』があるのでは?」と考えるひともいらっしゃるでしょう。 確かにその考えは一理あります。
これについて、ニューヨークでウェディングドレスを仕立てていた頃からの、僕の中のちょっとした哲学を紹介できたらと思います。
NYでは、日本ではほとんど目にすることがないような本当に純白のウェディングドレスを仕立てる機会も少なくありませんでした。 これが、アフリカ系アメリカ人の褐色の肌に素晴らしく映えるんです! カラーコントラストが効くから、肌もドレスも本当に際立つ、というわけです。
一方、日本のウェディングドレスを見ると、アイボリー系の白がほとんどです。なぜかというと、肌に馴染むから。髪から顔、デコルテからドレスへと目線が移って裾に至るまでの流れがアイボリーなら非常に綺麗に映ります。
そうした演出は、人生において特別なひと時には必要なことでしょう。 しかし、例えば「自分には赤は似合わない」というのとは、きっと別次元の話だと考えています。むしろ日々を彩る洋服は、他では使われていない色や生地、パターンでなければならない、というのが僕の提案です。
それは例えば、「紫色は人生の酸いも甘いも嚙み分けたひとが選ぶ色だ」とか「黄色のTシャツは何かを連想する」など、何か違うものとそのひとを関連づけてしまうことがないようにするための工夫です。
人間はだいたい100種類ぐらいしか色を識別できない、という話を聞いたことがあります。だから、微妙な色の違いは出せないだろう、という話もあるかもしれません。 ですが、素材によって色の出方はまったく違うもの。生地や加工にこだわれば、絶対に“何かと同じではない色”を出すことは実現可能だと、muller of yoshiokuboの洋服で証明しています。
そうやって僕たちが作ったコレクションを、ぜひ「好きか、嫌いか」で試してほしいし、チャレンジする機会をおもしろがってほしい。そう強く願っています。
ヴィンテージになっても「新しい服」であるために
muller of yoshiokuboの洋服は、生地もパターンも、なにもかもがユニークに見えるように作っています。 そんなおもしろくてユニークな洋服は、ワードローブの中に一着あれば、何年経ってもきっと「あの洋服に何を合わせようか」というあなた自身のクリエイティビティを日々刺激して、日常が華やぐきっかけを与えてくれるはず。
そうして、いつの間にかあなたの中で「洋服を着ること」の意味が変わるかもしれないーー。 そんなトキメキを感じられる一着が、muller of yoshiokuboであってほしいと考えています。
そう感じる洋服を作るために、僕たちは毎年、世界最大級の生地展覧会に必ず足を運び、その期に一番目を惹く、品質も申し分ない生地を選んで企画を始めています。
一生かけて着られる服にふさわしい生地を選ぶようにしているから、クローゼットの中でしばらく眠っていたとしても、ずっと白くて強いし、光沢が保たれたままでいる。 そういう生地って、きっと究極的にサステナブルでリーズナブルな選択だと思っています。
長く着られる服と聞くと、ヴィンテージの洋服を連想する方もいらっしゃるでしょう。 では、ヴィンテージとはどういうものなのでしょうか? ユーズドとの違いをひとつ挙げるなら、「めっちゃディテールとテクニックがおもしろい」とか「この生地は見たことがない、手触りが素晴らしい」とか「プリントが斬新」とか、そういったものがヴィンテージとしての価値を持てる洋服だと考えています。
「こんな生地、どこにもないから」と買った一着が、何年たっても着るたびに「それ、オシャレね」と誰かに言ってもらえたり、誰かに譲ることになっても「時代遅れ」にならないように。そして、もしも古着屋で見つけても「こんなの見たことない!」と心が動くように。
それが、muller of yoshiokuboが目指す洋服のあり方です。
muller of yoshiokuboの考え方をそのままに「安い服」は作れるのか?
洋服の値段は、生地と縫製とボタンなどの付属品で約1/3ずつ。 そうなると、生地を安くすれば値段は下げられる、という考え方も出てくるもの。
実際に、超一流デザイナーによるデザインをもとに、お手頃価格の生地を使って大量生産すると、デザイン料を加味しても圧倒的な廉価を実現することは可能になっています。
ただ、それでは「見たことがない、次の世代でも新しいと感じて、ちゃんと着られる服」を作ることはほとんど不可能だ、というのが僕の考えです。 だからと言って、「品質にこだわって、自分が満足いくものを」と追求し過ぎれば、結局は作る方も着る方も辛くなってしまう…。 そんなジレンマの中でどう自分たちのブランドの服を作っていくのか、日々頭を悩ませているところです。
生地については前のコラム(ヴィンテージになっても「新しい服」であるために)で紹介したので、今回は「縫製」について、少し僕の経験を踏まえてブランドの判断基準を紹介したいと思います。
僕は元々、Philadelphia University’s school of Textile & Scienceファッションデザイン学科でテキスタイルを学んだ後、縁があってニューヨークに移り、ロバート・デニスというデザイナーの元でアシスタントデザイナーとしてオートクチュールの経験を積んできました。
ロバート・デニスの仕事場には、大きな裁断テーブルが置かれ、その周りには10人ぐらいのお針子さんが。ロシアやポーランド、中国やタイと、出身地はさまざまな国際色豊かで気のいいお姉さんたちに囲まれて、僕はクオリティコントロールを担当していました。 「みなさん、これを見てください。このように裁断してください」という具合に、です。実際にデザインの仕事をさせてもらったのは、アシスタントとして働いた最後の短い期間だけ。それまでは、徹底的に生産管理に集中し、時には裁断をすることもありました。
当時の記憶の中で、今でも鮮明に思い出せるのは、「1m7万円ぐらいの生地を裁断する」という瞬間です。もしものことがあったら…と思うと、緊張でなかなかハサミを入れることができませんでした。
そんな緊張感の中で服を作っていたからでしょうか。 今は1m7万円もの生地を裁断することはありませんが、息が詰まるほど緊張して仕事をすることの何たるかを、折に触れて振り返ることができます。
緊張の裁断にしても、縫製のクオリティコントロールにしても、今のmuller of yoshiokuboのアイデンティティとして、重要な“コア”になっています。
だから、一般的には“許容範囲”とされる5mmのズレにもOKは出せない。 これを許してしまうと、muller of yoshiokuboの服じゃなくなってしまうーー。 そんな気さえするので、やっぱり安易に「安い服」は作れそうにないな、と感じています。
デイリーユースできるドレスを日常に
muller of yoshiokuboのデザイナーとして、このブランドの「生地選び(ヴィンテージになっても「新しい服」であるために)」「縫製(考え方をそのままに「安い服」は作れるのか?)」についての考えを綴ってきました。ここでは、ブランドの原点である、「デイリーユースできるドレスという哲学」と「服を着ること」について、思うところを書いてみます。
世界の服飾の歴史を見てみると、今は「女性だけのファッション」と思われがちなものが、意外にも男性向けファッションだったり、ユニセックスなものだったりすることがあります。例えば、ヒールの高い靴はルイ14世のお気に入りの履き物だったし、スコットランドではスカートが男性の伝統衣装として今でも身につけられています。
けれど、ドレスだけは、長い歴史を振り返っても「女性が着る洋服」なのです。
ちなみに「ワンピース」は日本の造語。つなぎもしくはオーバーオールの意味になるので、私たちのブランドではワンピースという言葉はブランド創設時から「使わないでおこう」というルールを守り続けています。
ニューヨーク時代に作り続けてきたオートクチュールのドレスはオケージョン使いができる、カラダに沿ってそのひとを究極に細く美しく見せる一着でした。 しかし、muller of yoshiokuboのドレスはオートクチュールではありません。 かといって、いわゆるワンピースとは違うもの。 その2つの中間にあるような存在であることを目指しています。
元々、メンズラインのyoshiokuboのコレクションの中で発表していたドレスを2006年から新たなレディースラインとして切り分けたのがmuller of yoshiokuboの成り立ちです。
「女性(が着るもの)」という考えにこだわって、それを表す言葉をいろいろと探していた時、スペイン・アラゴン州で“女”を意味する言葉である「muller」に出会い、これをブランドに冠することに決めました。 「スペインの一地方の方言を選んだ理由は?」と聞かれることがありますが、それは「ローカルでマイナーなものがオシャレになっていく」という確信があったから。
そして、日常でドレスを着る(dress for daily life)という楽しみを満喫しながら自分の思い描く理想を追い求めて活発に(lively)に生きるNYCの女性たちの姿を見ていたから、「そんな生き方をする女性が日本にも増えたら」という想像もしていました。
時を経て、気軽に出歩きづらい今日の状況では、そうした光景を想像することも難しくなっているように感じます。そうなると「今日はこれが着たい気分!」というふうになりづらかったり、「とりあえず着ておこう」と服を選ぶことも多くなってしまうと想像してしまいます。
たまにはそんなこともあるかもしれないけれど、生地はよくないし縫製もイマイチどころの騒ぎじゃない、というような服しか選べない状態が続くのは、良くないと、僕は思う。 それは極端に言うと、「日本の“恥”を着ている」ということになってしまうのではないかと考えています。
プライドとか、見栄とかじゃなくて、いろんなところに意識を向けたブランドなり洋服を着ていかないと、いつか本当に「異常につまらなくて、服に対しての意識が低い国」になってしまう。 自分が着ている服が、アイデンティティも何もない…。そうしたのを着ていることは、確かに「服にかけるお金はそう多くない」という難しさはあるかもしれないけれど、やっぱり「めちゃくちゃ味気ない」と感じてしまう。
だから、muller of yoshiokuboは、一着でも「この服を着たい!」と思い続けてもらえる服を追求して、より多くのひとに提案していきます。
そして、あなたに、「この服を着たい!」と思って着て欲しい。 そんなふうに考えています。
■来歴 久保嘉男
父は書家、母は縫い子というクリエイターの家で育つ。子どもの頃から自身の創造世界を表現することに熱心で、幼少期は自宅のトイレの壁すらキャンバスにするほどだった。 高校卒業後、渡米。映像系のスクールに通う予定だったが、憧れだったファッションデザイナーの夢が諦められずにいたところ、奇跡的なチャンスを手にしてPhiladelphia University’s school of Textile & Scienceファッションデザイン学科に入学することに。この時、当時の金額で5,000円ほどの裁ちバサミを購入し、「こんなに高額なものを買ったのだから」と、デザイナーとして身を立てる決意をした。 2000年に卒業。再び奇跡的な縁に恵まれ、ニューヨークにて、ロバート・デニスの元でアシスタントデザイナーの職を得る。オートクチュールデザインの経験を積み、2004年に帰国。「誰かの後追いではない、今まで見たことのないものを」という自身の哲学やアイデンティティをそのまま詰め込んだメンズブランド「yoshiokubo」を設立する。NY時代に培ったすべてでクチュールを自分なりに再解釈し、生地や縫製、デザインというあらゆる要素を昇華させたコレクションは、「yoshiokuboという新しいジャンル」と受け止められるほどの斬新さで話題に。 「muller of yoshiokubo」の誕生はその3年後となる2006年。yoshiokuboのコレクションとしてドレスを発表したのがきっかけ。「女性が着る洋服とは?」をyoshiokuboとして解釈したのがはじまりだった。